私も、パリ在住当時、”Maison Verte”を何度か訪れました。それは住宅街の一角にあり、常にサイコロジストが2,3名いますが、訪れた親子は精神分析や、精神療法を受けるわけではありません。治療が目的の施設ではなく、ふらっと親子が立ち寄って、子どもはおもちゃや遊具で遊び、親は(たいていは母親ですが)普通のおしゃべりのようなかたちで、育児上の悩みや、子どもの問題、自分自身の問題などをサイコロジストに聞いてもらったり、アドバイスを受けたりして過ごす場所です。親同士でおしゃべりが弾むこともあります。一定のルールがありますが、それさえ守れば子どもは自由に遊べます。開いている時間帯ならば、いつ訪れても、いつ帰ってもよいのです。その場を利用させてもらってありがとうという気持ちで、小銭をかごに入れて帰ります。親子の家庭以外の居場所であるとともに、家庭の外の社会を体験し、社会にはルールがありそれを守らなければならないことを学ぶ場として機能しているわけです。ドルトは、このような場やシステムを自ら考えて立ち上げてしまう行動力もかね添えていた人でした。
では、ドルトの臨床的な洞察力のすばらしさについてはどうでしょうか。訳書「無意識の花人形」の中から拾ってみましょう。第6章の「花人形を用いた精神分析治療」はドルトの代表論文であり、この論文中に取り上げられている「花人形症例」はドルトの名を一躍有名にしたといえるでしょう。この症例はベルナデットという5歳半の女の子で、言語表現といっても空想と作り話に終始し、不安発作や嘔吐や咳といった身体表現をたえず示し、遊びの中で人形に罰を与える行為を繰り返す強く退行したこの女の子を前にして、ドルトは精神分析という言語を介して行う治療が可能であるのだろうかと最初は疑問と不安を持ちました。しかし、いったん治療関係に入ると一回、一回のセッションにおいて、ベルナデットの空想的、作話的な言語表現、奇妙で独特な言葉をしっかり捉えて、そこにはベルナデットの欲望の表現があると考える姿勢を貫いていく、つまりまさしく精神分析を進めていきます。ドルトがあるセッションにおいてベルナデットに「花人形」を与えることを思いついたことは、非常に唐突な印象を与えます。しかしこの思いつきは、ドルトがベルナデットに出会う以前のさまざまなケースの治療において自由描画をとりいれ、多くのケースでマーガレットの花への同一化ということが生じることを観察していたという臨床経験に基づいていることが示されます。一方で、セッションの経過においてベルナデットの話のなかに登場する、彼女の攻撃性と結びついた「雌猿」という言葉に注目し、「雌猿」と治療者との同一視と「雌猿」を追い出そうとする奇妙な行為をみとめてからしばらく後のセッションにおいて、母親が「ベルナデットが動物も人形ももう好まなくなってしまった」と告げたそのとき、「花人形」というマーガレットの花の冠をかぶせた顔や手足のない人形を思いつくというところは、やはり天才的、直観的といえるでしょう。「花人形」にベルナデットの攻撃性が投影されることによって治療が展開していきますが、そのみごとな経過について知りたい方は、実際に本書をお読みになっていただきたいと思います。 |